沖縄出版界の歴史
沖縄出版界の歴史沖縄出版界の歴史
#02

戦後初期沖縄の出版事情

沖縄出版協会
武石 和実
有限会社 榕樹書林 代表取締役

ガリ版刷教科書のこと

1945年4月1日、米軍による沖縄上陸作戦が開始され、6月23日の日本軍の降伏まで激しい戦闘が展開され、沖縄本島中南部は文字通りの焦土と化します。実は、実際の戦闘は、3月26日の慶良間列島への上陸から始まり、9月頃まで各所で展開されますが、日本軍兵士9万人、沖縄の住民は十数万人が犠牲となりました。沖縄戦では、兵士よりも住民の死者が遥かに多かったのです。住民は米軍の攻撃だけではなく、日本軍による私刑、処刑等によっても多数犠牲となり、後々までも続く反大和の情念を生み出しました。

この4月から続く戦闘の中で、戦場に取り残され生き延びた住民は、米軍の収容所に収容されます。ですから、一方で戦闘が行われている地域がある中で、その一方で戦闘が終わり住民が収容所で生活する、という状況が生まれます。後に住民が収容所から解放され、故郷に戻ったら多くが米軍基地として接収されてしまっており、このことが今も続く在沖米軍基地問題の原点となっていると言えます。

収容所で問題となったのは多数の子ども達への教育で、8月、米軍の指示で「沖縄教科書編集所」が設置されます。所長は、山城篤男氏で戦争を生き延びた教員等が動員されます。「ガリ版刷教科書」は名護市田井等の収容所などで刊行が開始されることになります。実際の編集の中心となったのは、ひめゆり部隊の引率教師として知られ、後に、方言研究・おもろさうし研究で大きな功績を挙げる仲宗根政善でした。メンバーには、嘉味田宗栄、島袋全発、安里源秀、園原咲也、多和田真淳、大城哠也、大田昌秀等、沖縄の戦後史を飾る人士が参加しております。

この「ガリ版刷教科書」は今まで約40種余が確認されていますが、まだ知られていない部分があり、正面からの研究も吉田裕久氏による『占領下沖縄・奄美国語教科書研究』(風間書房、2010年)があるのみです。只、1981年に月刊沖縄社から『激動の沖縄百年』が刊行され、その第6巻が『教科書復刻版』で、ガリ版刷教科書5点が原本複製の形で収録されており、これによって多くの人々に知られています。

さて、このガリ版刷教科書は沖縄本島は元より八重山、宮古においても発行され、1948年6月に日本本土から130万冊の教科書が届けられることでその使命を終えますが、この教科書の持っている意義は大変大きなものです。何よりも戦後初の民主的価値観に基礎を置いた教科書であり、それは日本よりも2年も早いのです。そして今日の私のテーマから考えると、ガリ版刷教科書こそが、沖縄戦後初の出版物であった、ということです。

この時期の米軍占領を担っていたのは、アメリカ海軍で、陸軍よりはリベラルといわれ、担当の民政官達(ワトキンス氏、ハンナ氏、コールドウェル氏等)も優れた知識人でした。勿論まだ出版統制も公式には始まっていません。教科書は公的なものですから、真っ先に統制の対象なのですが、ストレートな形では出て来ていないように見受けられます。とはいっても、戦後初の沖縄の行政機関である「沖縄諮詢会」の創設を主導した米海軍政府政治将校のワトキンスは、軍と住民の関係を「例えていえば、米軍政府はネコで、沖縄はネズミである。ネズミはネコの許す範囲でしか遊べない。対日講和会議が済むまでは民衆の声は認められず、米軍政府の権力は絶対である。」として、沖縄側の自由な発言等を牽制しています。これは、「ネコとネズミ論」として戦後初期の米軍と沖縄住民との関係を端的に表現した発言として知られているものです。

戦後の民間出版物は、1949年に沖縄タイムス社から刊行された『月刊タイムス』、うるま新報(後の琉球新報)による「うるま春秋」と言われていますから、それよりも3年は早いわけです。

教科書は一般に流通する出版物というわけではありませんが、教科書の発行から沖縄の戦後復興は始まったと言って過言でありません。

農業生産の為のテキスト

戦後、すべてが破壊し尽くされた中で、最も緊急の課題の一つは農業生産の再構築でした。とりわけ中南部地域では、生産に必要な機器どころか、田畑も破壊し尽くされ、種苗さえも確保できない状況でした。

食料生産の復興は一刻の猶予も許されない課題で、これを指導したのが我謝栄彦(がじゃえいげん、1894年~1953年)です。戦後、農事試験場長として農業再建を指導しましたが、『菜豆(さいとう)と鵲豆(ふじまめ)』、『振農』第1号、『沖縄農家便覧』、『農家の友』第1号等をいずれも1947年に刊行します。いずれも孔版刷の小冊子ですが、軍政府による出版許可No.は一桁台です。ちゃんと確認出来ておりませんが、私が古書として扱った我謝栄彦の著書は許可No.4でした。

恐らく、一般の民間市場に流通した戦後復興の出版は、食糧増産を最重要課題とした我謝栄彦の一連の農業テキストから始まったのではないかと思われます。これは、沖縄人自身の希望であると同時に、占領当局の方針にも叶ったものであっただろうと思います。食料の安定供給なくして支配の安定もないわけですから。この時期、我謝の出版物の現物は、ガリ版刷のせいぜい2~30ページの小冊子です。教科書もそうですが、ガリ版刷というのは、一枚のガリ版原紙から美しく印刷出来るのは、せいぜい100枚とか200枚です。ですから発行部数もその程度のものだったろうと推測出来ます。

いずれにしても我謝は農業生産の再構築のために現実的課題に即した簡明なテキストを次々と刊行していったのですが、この辺りの詳しい調査等はこれからの課題です。

工工四(クンクンシー)の発刊と石版印刷

沖縄の戦後復興の源の一つに芸能の復興がある。収容所内で米軍当局のバックアップを受けて開催された民謡大会はその後の沖縄芸能の隆盛の出発点でした。

これは同時に沖縄の戦後出版の復興の始まりの一つでもあった。というのは、一般的な本が出版される以前に、沖縄独自の三線の楽譜である、いわゆる「工工四」が続々と刊行されていくのである。これには印刷技術上の大きな特色があって、①「工工四」はその特徴から当時主流であった活版印刷に馴染まないこと、②活版印刷の機械等が戦争で破壊し尽くされており、オフセット印刷はまだ導入されていなかったこと、③石版印刷の技術と機械が残されていたことによって、石版印刷による「工工四」の発行が相次いだのである。

ちなみに石版印刷は、オフセット印刷の先駆となる印刷技術ですが、日本では明治中頃から普及し、大正末には衰退します。主に、毛筆文字の印刷や図版印刷に活用されています。それが沖縄では2000年頃まで、専ら工工四の出版を軸に生き残ってきます。1950年代から60年代の琉球史料研究会による琉球史料の手稿本影印版による史料刊行も石版印刷でした。残念ながら、2000年頃にこれを担っていた三ツ星印刷所が閉鎖され、沖縄における石版印刷の歴史は幕を閉じました。参考までに工工四以外の石版印刷本の主だったものを幾つか挙げておきます。

『琉球古典組踊全集』(三ツ星印刷、1955年)、『中山世鑑』(比嘉寿助、1956年)『御膳本草』(三ツ星印刷、1961年)。

ちなみに今年私の所で復刻した明治42年(1909年)の『最新沖縄県全図』の元版も本土のものではありますが、石版印刷で、石版印刷による地図は珍しいものです。皆さんがよくご存知のペリー提督日本遠征記の挿画も石版印刷で、これは一般に「リトグラフ」と呼ばれ、この技術は版画の世界で生き残っております。

何にせよ、石版印刷の技術が戦災を逃れて生き残った事によって、「工工四」という特殊な分野ではありますが沖縄戦後出版史の一つの流れが形作られていったのです。

『工工四』の出版は琉球王国時代に遡るもので、大変興味深いものがあります。イギリス大英図書館旧印度省コレクションには、王国末期に琉球で印刷出版されたものと思われる『工工四』が所蔵されております。これはいわゆる琉球板といわれているものの中でも古いものに属し、今その存在は大英図書館のものしか確認されておりません。これは石版ではなく木版(整版)です。1992年、浦添市美術館で開催された「世界に誇る琉球王朝文化遺宝展」で初公開されていますが、展示物は「下巻」とされています。ということは、おそらく上巻、あるいは上・中巻があったであろうと推測できます。

琉球、沖縄の独自の出版物の最も古いものの一つが『工工四』だったということは、琉球・沖縄の歴史と文化の中で芸能音楽が大きな位置を持っていたということを示しています。そしてまさに、このことが戦後復興の中で真っ先に『工工四』の出版が開始された、ということに繋がっているのだろうと思うのです。

工工四の出版は今でも盛んに行われていますが、今はオフセット印刷になりました。しかし、その出版の体様は以前同様、非売品、会員頒布という形が大多数です。

戦後の工工四出版の実像はまだ研究の端初にさえ着いておりません。どの様な工工四が発行され、どの様な影響を与えていったのかを探ることは、芸能史研究だけではなく出版史研究においても大きなテーマとなるのではないでしょうか。