琉球・沖縄の歴史と出版―私的経験から
2016.4.19
(有)榕樹書林
代表取締役武石和実
出版について語る前に、まず沖縄がどういう所か、どの様な歴史的背景をもっているのかを簡単に紹介したいと思います。
沖縄の出版はどの様な分野にせよ歴史的背景を抜きにしては語ることは出来ません。古琉球と呼ばれる時代から米軍基地の重圧に苦しむ今に至るまでのそのことをまずは確認したいと思います。
沖縄は琉球とも呼ばれ、東アジアの海に浮かぶ貿易国家として繁栄してきました。1429年に3つの地域権力に分立していたものが統一され、琉球王国が誕生しました。この前後、琉球は日本本土はもとより、朝鮮王朝あるいは明代中国とも密接な交易を行っており、1404年(明・永楽2)からは明朝の冊封を受け入れ、明を中心とした東アジアの交易の一翼を担っておりました。
1609年(万暦37・慶長14)日本の戦国大名の一人、島津氏が琉球に上陸し、首里城を占拠、時の国王尚寧を捕虜として鹿児島に連行する、という、琉球史を画する大事件がありました。
島津氏の狙いは琉球と明国との貿易を支配し、その収益を我がものとすることでしたが、正面からこれを行えば明と琉球の貿易それ自体が崩壊する危険がありましたので、島津氏は形としては表に出ることなく裏で琉球を支配していくことになります。
この結果、琉球王国は対外的には明の冊封体制の中に組み入れられつつも、薩摩によって押えられていく、という、いわゆる両属体制に入っていきます。この1609年を境としてそれ以前を古琉球(中世)、以後を近世琉球と分けております。
古琉球期から琉球王国時代にかけての琉球王国の繁栄については1980年に高良倉吉氏の著書『琉球の時代』によって広く民衆の認知する所となり、1972年の本土復帰以降の沖縄の人々のアイデンティティの覚醒を促すことになります。沖縄の多くの人々に誇りと自信を与えたと思います。
1609年以後も琉球は中国の冊封を受けておりました。琉球王国時代を通して23回の冊封使来琉があり、14冊の『冊封使録』が上梓され、また対外交渉の詳細な記録『歴代宝案』が編集されました。『冊封使録』は当社が現代語による訳注本で全11冊にまとめて刊行しておりますし、『歴代宝案』は中国檔案館の協力を受けて校訂と訳注の刊行事業が沖縄県によって進められております。
1879年(明治12年)、日本政府は軍隊を派遣して琉球王国を潰し、いわゆる「琉球処分」です。これによって琉球の両属体制は終焉を迎え、日本政府による直接支配を受けることになります。
琉球処分に抵抗した琉球王府の旧士族の一部は、清朝政府の支援を求めて中国に渡り、積極的に琉球王国復興運動を展開しましたが、周知のように、この頃の清朝は弱体化し、滅亡に向かっていました。台湾事件を口実とした日清戦争で清は敗北し、これによって琉球内の親中派は全く沈黙することとなります。
沖縄を語る時、今に繋がる最大の危機は太平洋戦争末期の沖縄戦による壊滅的被害と、それに続くアメリカ軍の占領統治です。そしてこの米軍支配への抵抗運動が起こり、その結果1972年に沖縄はいわゆる「本土復帰」したのです。しかし、日米密約のもとで米軍基地の重圧は何ら変わらず、日本政府の対米追随等、「本土復帰」に大きな疑問が投げかけられています。今も又、日本政府と沖縄は新米軍基地建設をめぐって激しく対立しております。
以上を踏まえないと、沖縄の出版が日本のそれとは様々な面で位相を異にしていることは理解できません。日本とは歴史が違います。勿論、自然も違えば風俗・風土はもとより、言葉も、人間の気質も異なります。従って、本の内容も違ってきます。小さいとはいえ一つの国家を成立させていたわけですから、出版という側面から考えると、国家に伴うあらゆるテーマがあるのです。
戦後沖縄はまさしくゼロからの出発で、その様な中での出版活動は戦後復興の一翼を担うものとして大きな役割がありましたが、米軍当局による検閲によって復帰に至るまで様々な制約を受けなければなりませんでした。
従って、米軍政への批判とみなされた出版は発禁となり、米軍政府と沖縄の人々との大きな摩擦を生みました。発禁処分で大きな話題となった本には『人民文化』(1950年・沖縄人民党)や『琉大文学』(1955、1956年・琉大文学クラブ)、『愛唱歌集』(1967年・沖教組)等があります。
本土復帰以前は、出版だけではなくその流通も様々な制約を受け、反米的なもの、容共的とみなされたもの等は流通させることが出来ませんでした。流通諸経費が直接的に定価に加算されましたので、価格も本土に比べ20%程度高いものになりました。
1972年の本土復帰はこれらの制約を解放することになりました。幾つかの出版社は独自の企画とお客様への直接的な戸別訪問販売によって大きな利益を上げました。大型の美術本や写真集、図鑑などの出版が一世を風靡しました。これには小売店の力が弱いということも関わっていただろうと思います。
本土復帰後の出版の大きな変化の一つは、新聞社による出版の隆盛です。沖縄タイムスの『新沖縄文学』(これは当初こそ文学中心でしたが、やがて総合雑誌へと変貌していく)を出し、これを基軸に、歴史学・民俗学等の基本図書を刊行し、沖縄出版界の中軸をなしていくこととなりました。
1983年に刊行された『沖縄大百科事典』(全3巻+別巻1)は、戦後沖縄史の一大事件でした。『沖縄大百科事典』は、沖縄の思想界の中心軸となっていた沖縄タイムスの新川明氏(社長=当時)のもとで、本土大手出版社あがりの優れた編集者上間常道氏の指揮の下、大がかりな編集体制がとられ、県内の知識人が総動員されました。その基本は『新沖縄文学』の編集・刊行を通して形成された人脈でした。
『沖縄大百科事典』は定価55,000円の本を3万部売り上げるという大成功をもたらし、傾いていた沖縄タイムスを救いましたが、その真の成果は、この編集作業を通して多数の若い編集者が育ち、刊行後それらの人々が新しい出版社や市町村史の編集委員会等々に拡散し、今日ある沖縄の出版の基盤を作ったということでしょう。
かつて大型本の直販で栄えた出版社が零落し、そこから新しい出版社が芽を出し、それに『沖縄大百科事典』編集で培われた若い力が加わり、本の内容そのもので市場に立ち向かう、という、今日ある沖縄出版界が作られたのだ、と言えるでしょう。今元気な出版社、例えばボーダーインクも、ニライ社も、東洋企画等もみなこの流れの中で形成されてきたのです。