琉球・沖縄の歴史と出版―私的経験から
問題もあります。市場規模が小さく採算性が低いのです。流通も本土のようにいきません。
本土での出版流通を支えている日販・東販という取次を通したシステムは沖縄では機能しておりません。従って販路を本土に拡げようとしてもコストや掛率等、様々な面で不利になっております。
私は1980年に古書店を開業しました。この頃、多くの古本屋ができ、今日に繋がっているのですが、私どもはいわばその第一波でした。ただ多くの店が雑本中心でしたが、私は当初から人文系専門書及び沖縄の郷土図書をメインにし、古典籍を含め沖縄研究の基本資料を積極的に扱いました。このことによって県内の図書館、博物館、そして大学及び在野の研究者と親しく接触することができ、かつ信頼を得たのです。又、フィールドワークで訪れる本土からの研究者たちも、顧客として私供の店を盛り立ててくれました。更にこれらの人達は出版活動の開始に伴って執筆者として協力して下さいました。
私の出版の最初の飛躍は『空手道大観』の復刻でした。1991年の事です。この本は空手に関する歴史的な基本図書ですが、私自身はいわば郷土資料の1冊として出版したのです。定価12,000円という高額本にもかかわらず大きな反響を呼び、これに気をよくして「出版」という泥沼に本格的に足を踏み入れることとなりました。空手の本は私にとって、あくまで事のついでだったのですが、空手は沖縄が発祥の地であり、今や全世界に普及発展していますので、その市場は沖縄県内にとどまらず、全世界へと拡がっています。今では当方の出版活動の一部門として定着しています。
さて、『空手道大観』が成功しましたので経済的に余裕が出て始めたのが『琉球弧叢書』です。
古本屋で学術書を扱っていると、自然とその道の人との交流が生まれます。と同時に、「どの分野の本がない」ということに気付きます。あるいは又、扱った古書が古典籍であった場合などはその本が活字化されていないことが、特に沖縄関連の場合少なくありません。扱った貴重書を活字化できないものか、そしてついでに現代語で訳注し、広く一般の人に読んでもらえれば独自の社会的貢献も出来るのではないか、と思ったわけです。
その第一弾が、『沖縄芸能史話』(1993年、矢野輝雄)でした。2冊目が『南島志現代語訳』(1996年)です。『沖縄芸能史話』も『南島志』も思い描いていたほどには売れませんでした。思い入れと現実には大きなギャップがあったのです。
しかし、ここで大きな転機がありました。3~4年がかりで進めていた超大型企画の『沖縄戦後初期占領資料』(全100巻+別巻1、1994年刊)がうまくいったのです。この本はアメリカ、スタンフォード大学フーバー研究所所蔵のワトキンス(元海軍政府民政官)文書のマイクロフィルムプリント版で、当時としては占領初期軍政研究の基本とされているものでした。そしてその全てが公開されたのは私供の出版によってだったのです。
ただ、この様な大型企画を私供単独でこなすことはほとんど無理かと思われたのですが、当時書店小売最大手の紀伊國屋書店のトップだった方と懇意にさせて頂いていた関係で、全国販売を紀伊國屋さんに依頼し、発行部数の半分を即買い取ってもらうことで、無謀とも言えるようなこの出版も陽の目を見たのです。
幸い、この本は企画時の予測を超えて売れ、当方に財政的余力を与えてくれました。このことが『琉球弧叢書』に弾みを付け、更に『琉球冊封使録集成』へと向かわせたのです。
『琉球弧叢書』は、歴史学・民俗学を中心に沖縄学研究の新しい成果をまとめた叢書ですが、沖縄県内ではこの様な形の出版はそれまでありませんでした。近いものでは沖縄タイムスの「タイムス選書」があり、高い評価を受けていますが、それより一回りボリュームを増した研究書の叢書が県内出版で成り立つとは思われていなかったのです。事実、商売としてうまくいっているとは言えません。『冊封使録集成』もそうですが、単純に黒字がどうの、赤字がどうのと言っていたのでは、沖縄の様な狭い市場を相手にしていては初めからやっていけないことになります。しかし当方には『沖縄戦後初期占領資料』で得た資金がありました。又、この頃は古書も何とか順調で安定していました。私にとっては、大もうけしてそれでいい想いをしようということよりも、「本を出すこと、たとえ売れなくとも出したい本を出すこと」が大事でしたので、思いついた企画をどんどん形にしていくことが出来たのです。一人で出版をやっていくことの優位性はここにあります。
その点で、私の出版の大きな柱の一つである『琉球冊封使録集成』は特別の想いのあるものです。その前に、「冊封」について説明しなければなりません。
琉球王国は、中国の皇帝から冊封を受けることで中継貿易国家として繁栄しました。冊封とは、中国皇帝の臣下となることを確認するための儀礼ですが、この為に冊封使が琉球に派遣されてきます。それは、1404年(永楽2)に始まり1866年(周治5)に至るまで23回行われました。この冊封使が記した記録が、『冊封使録』(『中山伝信録』や『琉球國志略』に代表される)で、その全てを現代語訳注し、出来るものについてはあわせて原文提供し、冊封使録に関する総まとめ的な本を出そう、というものでした。
これも古典籍として『中山伝信録』等を扱ってきた経験を元にした企画でしたが、同時に訳注者として原田禹雄(のぶお)先生と意気投合したことによるものでした。
冊封使録は漢文資料(即ち中国語)ですが、琉球王国を実地で見聞した書籍ですのでその史料的価値は大変高いものです。しかし、和刻本が出ている『中山伝信録』『琉球國志略』以外は入手は大変困難な本で、郭汝霖(かくじょりん)の『重編使琉球録』(1561年)の様に世界中に1冊しか知られていない本もあります。
原田禹雄先生は漢文資料に広い知識があり、その訳注は詳細を極めています。全11冊の訳注を進めていく過程で蓄積された新たな知識を次の本に生かす為、たとえば『中山伝信録』などは、以前別の出版社から出版したものに比べれば、倍近い容量になってしまいます。
元々、冊封使録等を専門に研究している人は大変少ない、おそらくは10人にも満たない中での出版ですので、なかば意地で出している様なもので、当然のことながら儲ける事など望むべくもありません。それでも2011年、難行だった『蕭崇業・謝杰(しょうすうぎょう・しゃけつ)使琉球録』を送り出し、全11冊の刊行を終えました。そしてほぼこれによって『沖縄戦後初期占領資料』で得た利益は喰い尽くされたのです。
ただ、『冊封使録集成』は様々な波及効果をもたらしました。難解な漢文史料が現代文で読めることによって、若い研究者が冊封使録に取り付きやすい様になり、幾つもの学位論文が出てきました。首里城での冊封式典の再現等にも広く活用されています。そして又、関連する出版にも連動することになります。
原田先生の冊封使録訳注の仕事の他にも、原田先生の本だけで琉球弧叢書で4冊生まれました。それから刺激を受けた若い人の本も何冊か生まれました。関連する重要な古典籍の訳注ということで『質問本草』、『琉球神道記』『琉球國旧記』も出しました。