『絵本ひめゆり』の制作 ~沖縄戦を語り継ぐ~
フォレスト代表 諸見志津子
第二次世界大戦の終結から73年の歳月がたち、実際に戦争を体験し、記憶している人の数は残り僅かとなってきました。
そんな中で、戦争の実相を後世に伝えていくために、体験者の証言などを少しでも多く集めて記録することが喫緊の課題となっています。
米軍が上陸し、激しい地上戦がくりひろげられた沖縄でも、やはりそれは同様です。
私は日本本土の出身ですが、沖縄に来て間もなく、元ひめゆり学徒とその同窓生の皆さんが計画していた「ひめゆり平和祈念資料館」の建設に関わる仕事をしました。
「ひめゆり学徒」というのは、沖縄戦の際に、看護要員として戦地に動員された、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒たちのことです。
当時15歳から19歳の少女たちでした。
軍国教育により、「戦場でお国のために戦うのが当然」と思っていた少女たちは、激しい地上戦に巻き込まれ、動員された222人のうち123人が命を落としました。
戦後、「純真な少女たちが国のために命を賭して戦った」という美談として日本中にひろまりましたが、私が実際に生き残った元学徒の方々から聞いたのは、そんな美談ではなく、想像を超えたすさまじい体験談でした。
アメリカ軍が上陸し、激しい地上戦が行われる中で、野戦病院での、寝る時間もないほどの過酷な看護活動、命がけの食糧調達や伝令活動などを強いられました。戦況が悪化し、日本軍とともに沖縄本島南部へ撤退しましたが、最後には解散命令が出され、十代の少女たちは、艦砲射撃や機銃掃射が荒れ狂う戦場で、自分の判断で行動しろと放り出されたのです。
理不尽な軍のやり方に絶望しながら、少女たちは逃げまどいました。そして沖縄戦が終結するまでの短い期間に、たくさんの若い命が戦場に散っていったのです。
生き残ったひめゆり学徒たちは、戦後長いあいだ、自らの戦争体験を口にすることはありませんでした。家族にさえ話したことはないという方がほとんどでした。お友だちの死を目の当たりにした、ケガをして動けなくなった人を置き去りにせざるを得なかった、という経験で、生き残ったことに後ろめたさを感じていたからでした。
生活がやや落ち着きを取り戻したころ、学徒隊を引率していた先生の勧めで、亡くなった学友の慰霊のために、遺骨収集、遺族の訪問、といった活動が始まりました。
その後、1989 年に、ひめゆり学徒隊のことを後世に伝えるべく、ひめゆり平和祈念資料館が誕生しました。全国の同窓生が寄付を集め、展示物の企画・制作なども戦争を体験した同窓生を中心に自らの手で行い、7年の歳月をかけてつくられた資料館です。
場所は、糸満市伊原の壕のそばに建つ慰霊塔「ひめゆりの塔」の隣になっています。そこは多くの生徒、引率の先生が亡くなった場所でした。
開館から現在にいたるまで、元ひめゆり学徒の方々は、そこで語り部として来館者に自分たちの体験談を話してきました。
元学徒の方たちは、戦場に置き去りにした友人のことを思い出して、話をしていても涙が出てしまうとおっしゃっていました。近年は高齢化のため、館で話をすることができる人もわずかになってしまいましたが、30年にわたり、毎日当番を組んで県内各地から通 って証言活動をされてきた元学徒の方々からは、平和を求める強い気持ちを感じます。