第 25 回東アジア出版人会議 韓国 富川会議(2018 年 10 月) 発表原稿

「沖縄を変えた」人々をめぐる本

友利仁(沖縄タイムス社出版部長)

まずは、『沖縄を変えた男』(松永多佳倫著、2012 年刊)という本の紹介から始めます。サブタイトルの「栽弘義─高校野球に捧げた生涯」が示すように、1970 年代から90 年代にかけて、高校野球で沖縄の高校を全国屈指の強豪校に育て上げた指導者、栽弘義氏の生涯を描いたノンフィクションです。

「高校野球」の持つ意味を日本・沖縄以外の地域の皆さんにどうお伝えするかは難しいのですが、今年、2018 年夏の全国高校野球選手権大会は、第 100 回の記念大会ということで大いに盛り上がりました。この大会で準優勝(103 年ぶりの決勝進出)した秋田県代表校の偉業を記録した写真グラフ『金足農 感動の軌跡』は、発売初日に1万2千部を完売したといいます(発行の秋田魁新報による発表)。どうやら、沖縄・日本には代表校の活躍を自らの「誇り」とする感性があるようです。そしてそのことは、都市部から離れた「地方」の方がより強いように感じます。野球が国民的人気スポーツであることと、全国大会に都道府県単位で代表を出していることが要因かもしれません。

沖縄では、私どもが地方予選大会を記録した写真グラフを刊行しました。似たような企画は多くの県で出版されています。沖縄の場合、今回が初めての出版だったのですが、地域の書店で多く売れました。「地方」の方がより売れているという傾向は、沖縄という単位の中であっても変わらないような気がしました。購入者の多くが参加した選手の関係者のようでした。

沖縄の場合、第二次大戦後に日本から切り離され米軍統治下に置かれたという歴史から、高校野球での活躍は、他県の「誇り」以上に特別な意味を持つものになりました。 だからこそ栽弘義氏が率いる高校チームの躍進は「沖縄を変えた」といえるものになったのです。いったい何を変えたのか、については後述したいと思います。

その『沖縄を変えた男』が刊行された当時、私は所属する新聞社の文化面の担当記者でした。非常にうまいタイトルの付け方だと感じ、著者へのインタビューも行いました。私の場合、高校野球が「沖縄を変えた」ということは非常に強い実感として首肯していました。それは、1999 年に私がかかわった書籍(写真グラフ)に起因しています。

鳴りやまぬ電話

1999 年4月3日、沖縄尚学高校が春の選抜高校野球大会で全国優勝を成し遂げました。

実は私は、その前日の2日、準決勝でのPL学園との延長戦に及んだ死闘をテレビで見ていて、これは本にすべきだと決め、準備を始めました。準決勝は土曜日、決勝は日曜日で会社の役員の決裁を得る時間はなったのですが、「仮に準優勝でも出版する」と一人で決め、運動部・写真部に連絡を入れ、土曜日の夜から編集作業をスタートしました。当時はまだ、写真はフィルム撮影の時代。今のようにデータベースから取り込むこともできず、準決勝以前のフィルムは「船便(!)」で送ったとのこと。そういう条件の下で、新聞に掲載された写真を手掛かりに、編集・制作作業を開始しました。

優勝から5日後の4月8日、私はその日も、デスクから少し離れた大きな作業台にプリントされた写真を机いっぱいに並べ、トレーシングペーパーを貼り付け、トリミングの指示をし、キャプションのデータを入力していました。この頃は編集作業が大詰めを迎えていたころだと記憶しています。これまでと違っていたのは、この日付の朝刊一面で「センバツ優勝記念グラフ集刊行/予約受付中」と社告を掲載したことでした。朝から途切れることなく予約の電話が鳴り続け、そのあまりの過熱ぶりに正直震え上がりました。

プレッシャーを感じたもう一つの要因は、ライバル紙である琉球新報もグラフ集を出すことを知ったことでした。グラフの性質上、緊急出版しなければならないことは自明でしたが、こちらは準決勝の段階で出すことを決め準備を始めていたこともあり、琉球新報よりは早く出せるだろう、もしかしたら出さないかもしれないと、隙があったのだと思います。ところがほぼ同時期に刊行の社告を打ち出したことから、「どんなことがあっても遅れてはならない」と追い込まれました。読者の熱い期待に応える内容とスピ ードが求められました。校了までの3日間は数時間しか寝なかったはずです。若かったからできたのだと思います。発売開始は4月 17 日。当時の編集・印刷状況を考えれば最短でできたと思います。少なくとも遅れはしませんでした。

高校野球に託したもの

話を『沖縄を変えた男』に戻します。栽弘義氏が豊見城高校を率いて初めて全国大会に出場するのは 1975 年、つまり沖縄の「日本復帰」から3年後のことです。そこから全国大会で勝つことが、「沖縄を変える」ことになります。何を変えたか? 端的に言えば劣等感の克服だと思います。

翌 1976 年にボクシングで世界チャンピオンになった沖縄出身の具志堅用高氏と併せて考えてもいいのですが、高校野球の活躍は、「ナイチャー(日本人)に負けない」ということを具現化した存在だったと思います。日本人と対等であること、さらに一目置かれることが、どれほど沖縄人に勇気を与えたか。ということは、いかに沖縄人が劣等感を抱いていたかの裏返しでもあるでしょう。

『沖縄を変えた男』によれば、栽弘義氏はその 70 年代には「殴って、殴って、殴って、体に染み込んでいる県民性を破壊させなければならなかった」といいます。優しいとも気弱とも表現される県民性の克服のために、あえて鶏の屠殺をさせて鍛えようとしたという記述もあります。

栽氏が率いる高校は 1990 年、91 年に連続準優勝してキャリアの頂点を迎えます。ということは 70 年代、80 年代は強豪校としていくつか勝つものの、そこからの壁は乗り越えられないという状態にありました。これは栽氏が率いる高校だけでなく、沖縄代表の高校が共通して抱えていた課題でした。勝負弱さ、精神のひ弱さなどが指摘されていました。

私が見ている限り、その 70・80 年代、選手ではなく見ている側、つまり高校野球に何かを託す側の反応は、その勝負弱さを歯がゆく思いつつ、わがことのようにとらえ見ていたと思います。つまり、だめだとわかりつつ「県民性を壊す」までの変革は望んでいない、というものでした。

それは「復帰」から全国並みになろうと努力しながら、立ち止まって「沖縄らしさを失ってはいけないのでは」という沖縄の政治・社会状況と軌を一にしているように思えます。かように、沖縄の高校野球とそれを取り巻く状況は、沖縄社会を映す鏡だといっていいと思います。

劣等感の克服

1995 年、米兵暴行事件に端を発した、沖縄の米軍基地をめぐる異議申し立ては大きなうねりとなりました。その少し前、「復帰 20 周年」の 1992 年には首里城が再建され、「沖縄は(琉球王国は)はすごい」という認識が一気に広がっていました。

その時期に大ブレークし、その後日本にとどまらずアジア全域で活躍したのが歌手の安室奈美恵さんでした。彼女の登場以後、沖縄を見る目が劇的に変わりました。沖縄は差別の対象ではなく、沖縄出身であることが「いいね」「かっこいいね」に変わりました。まさに彼女は「沖縄を変えた」人になると思います。おそらく、1990 年代以降に生まれた沖縄人にとって差別や劣等感というものをリアルに感じることはないと思います。

その安室奈美恵さんは今年9月 16 日(デビューと同じ日)に引退しました。沖縄タイムス、琉球新報ともその日に向けてさまざまなイベントを仕掛けています。ただ、あまりにも存在が巨大なので、本にすることはできませんでしたが…。

イデオロギーよりアイデンティティ

2000 年代、2010 年代をまとめるのは難しいので別の機会に譲りますが、最後に私がかかわった本で締めたいと思います。

1995 年の沖縄の異議申し立ての中で、「世界一危険」といわれる普天間飛行場を同じ沖縄の名護市辺野古に移設するという考えが出てきており、県内移設への反発から、普天間の返還合意から 22 年たつ現在でも普天間はあの時のままです。

2013 年末、その辺野古埋め立てを沖縄県知事が承認する事態になりましたが、それは選挙公約と県民意思に反していると大きな批判が起こり、翌 14 年の県知事選には「イデオロギーよりアイデンティティで沖縄を一つに」「辺野古の新基地建設は阻止する」と訴えた翁長雄志氏が、埋め立てを承認した現職に 10 万票近くの差をつけて圧勝、新しい知事となりました。

知事就任から沖縄県民、あるいは政権、司法の場で繰り返し訴えたのは、基地をめぐる沖縄の歴史と、「それを踏まえれば今、沖縄に対して行われている政策はあまりにも理不尽」ということでした。ウチナーグチ(沖縄口)を交えたその発言は「翁長語録」と称されていました。その後、工事を進めようとする国と対峙し、裁判闘争などを展開していくのですが、今年の8月8日に急逝しました。

急逝の報を受け、すぐに書籍化の道を探りました。いずれにしても緊急出版せねばならず、だとすればこれまでに発表された新聞記事をまとめることが最も早いだろうと結論付けました。では何をまとめるかと考え、「語録にすることを決めました。亡くなったその日のわが社のホームページには、「翁長語録」の過去記事を再掲していたことにも背中を押されました。語録の出版を決め、高校野球初優勝の時と同様に、社内調整と同時に編集作業を開始しました。検索で、知事選出馬からの関連記事をかきあつめ、発言をピックアップし、その発言の背景が分かるような解説を付しました。

月命日にあたる9月8日、『沖縄県知事 翁長雄志の「言葉」』として刊行しました。この原稿を書いているのは9月 10 日、発売から3日後ですが、大口注文・追加注文が相次いでいます。これまでにない勢いです。私は、翁長氏が沖縄の歴史に名を残す、「沖縄を変えた男」として今後歴史に記録されていくだろうと、この注文の過熱ぶりから確信しています。1999 年の高校野球優勝と同じように。

友利仁(ともり・ひとし)Hitoshi Tomori
沖縄タイムス社出版部長。1967 年生まれ。1991 年沖縄タイムス社入社。書籍編集をおもに担当も、2009 年から学芸部文化面担当記者。2013 年から現職。
※プロフィールは発表年度のものを、そのまま掲載しています。