第26回東アジア出版人会議 東京会議(2019年 6 月) 発表原稿

「古書と出版と大学人達」

(有)榕樹書林 武石 和実

私は1980年に古書店として緑林堂書店を那覇市にて起ち上げ、1983年に宜野湾市へ移転した。1990年頃からは出版活動に本腰を入れ、1997年に法人化と同時に社名を(有)榕樹書林(ヨウジュショリン)に改め、今日に至っている。

那覇から宜野湾への移転の主な理由は(あるいは目論見)は、宜野湾に琉球大学が移転し、又近くに沖縄国際大学(1972 年移転)もあり、少し離れて沖縄キリスト教短期大学も移転したことから、大学教員は勿論だが多数の学生がいて、潜在的顧客層があるだろうという思惑からであった。

1960 年代 70 年代の学生運動の余波も残り、当初の主要な在庫は社会科学系であったが、現実にはその売上は微々たるものとなり、取扱いの主要な領域は琉球・沖縄関係書となって今日に至っている。

私が仕事を始めた頃、私と同世代の人達が本土の大学の院を出て次々と沖縄に帰り、活躍をし始めていた。紅型や伝統工芸研究に新しい手法を持ち込んだ渡名喜明氏、琉球史研究に新風を巻き起こした高良倉吉氏、映像評論の先駆となった仲里効氏等々がおり、かつ 1983年に沖縄タイムス社より刊行された沖縄大百科事典が様々な方面に潜んでいた新しい書き手を掘り起こしていた。本土から多くの歴史や民俗学系の先生方が多数来沖し、資料収集の一環として古書の収集に力を入れていた。

さて宜野湾の店は、国道330号線に面し、琉球大学からは徒歩30分、沖縄国際大学からは徒歩 15 分の所にある。大学や博物館あるいは市町村史の編集部局が主な取引先であり、店頭で最も大きなお客様は、本土から沖縄でのフィールドワークの為に訪れる研究者であ ったが、学生は微々たるものであった。

最盛期、近隣には新刊書店が4店、古書店が 7店(通称:沖縄古本街道と呼ばれた時期でもあった)もあり、いずれも多数居住する学生をアテにしていた。それは「学生が一番本を読む層だ」という過去の通念に基づいていた。60 年代、学生はエリートのはしくれだったが、70 年代の大衆化によって学生は単なる就職予備軍となり、本の世界から距離を置き始めていた。今、私の店の周囲からは新刊書店は全て消え、古書店も私を含め2店舗のみとな った。多くの学生が車で通学する様になると、住む所は必ずしも大学に近接する必要がなくなる。本屋だってそうだ。多少離れていても駐車場がある大きな店(新刊書店)に目が向いてく。

現在、全国的に新刊書店の数は激減している。小さな店が閉店に追い込まれる一方で、大型書店が次々と生まれ、一店舗あたりの売場面積は大きく拡大されていく。結果として今沖縄県内では地場の書店の多くが姿を消し、全国展開している大手チェーン店が圧倒的な存在となっている。ジュンク堂書店、宮脇書店、ツタヤ、リブロ、戸田書店等々である。

大学生協はかつて学生向けの書店として、かなり大きな存在であったが、いまや教科書以外見るべきものはない。出版社の営業活動の対象外となってしまっている。

古本屋とて例外ではない。一般学生が本を求めて来店することは本当に少なくなった。新年度、教授から読む様にと推薦されたブックリストを手に学生が来店することがあるが、リスト掲載の本で1000円、2000円の本は探求の対象外で、専ら文庫本や新書判、つまり200~300 円の本しか探さない。2000 円、3000 円という本はあったとしても始めから対象外なのである。学生の本分は本を読むことだと思うのだが、今やそれは部外者による単なる願望に過ぎなくなっている。

何年か前にある大学教授の研究室に入って驚いたことがある。本らしい本が何もないのだ。あるのはコピーのファイルのみ。ほとんどがネット情報で済ませているのである。別の国文学の先生も、半分はコピーであった。本の全体を読み、把握した上での該当部分だと思うのだが、部分を集積してどうするのだろうか。

知人が大学で150人程の学生を前に講義した際、「新聞を毎日読んでいる人は?」と挙手させた所、わずか 17~18 人だったという。これらのことは何も沖縄だけの問題ではないし、今更言い立てる程のことでもなくなっている。

学生の本離れの要因はいろいろあるだろうが、人文的知への信頼感の喪失が一つにあるのではないだろうか。第二次大戦後、大戦の爪跡は全世界の人々に過去への反省と新しい理想への希望を奮い立たせた。人々は競って新しい社会を希求し、イメージし、それへの道筋を求めた。だが、それらは現実によって裏切られた。

最も大きかったのは、ソ連邦の崩壊と東西冷戦の終結だったかもしれない。新しい社会としてイメージされた社会主義が内部崩壊し、その実像が暴き出されることによって、人々は表象と実像のあまりに巨大な落差に愕然とした。

社会主義的理想に向けられていた様々な知的営為の試みは行き場を失い、混迷の道に入 っている。合わせてインターネットの発展に見られる技術革新の大波が、人文的知の探求を侵食し、それは今では「考える」という行為自体を無用の物とする方向にまで追いやっているのだ。多少の知的要求について、もはや本は不要になってしまったかの様に見える。ネットで検索すれば、とりあえずの情報はすぐ入手出来る。百科事典は、もはや古本屋の商品としては死刑宣告されている。

だが様々な事象を論理的に把握しようとするならば、多様な知識の獲得とその分析の方法を自らのものにする必要があると思うのだが、それは決してパソコンから得られる情報で作られるものではないだろう。パソコンから得られる知識はあくまで一つの素材であって、血の通った思考ということにはならないのでは、と思うのだ。

現代が本にとって危機の時代であることは間違いのないことだ。本という概念自体が変化していくだろうけれども、紙の本は衰退することになっても、滅びはしないだろう。だがそれは、一部の知的エリートの趣味の世界に陥ってしまうかもしれない。

「読書」という行為の定義づけ自体が変化を余儀なくされている中で、出版・編集者と読者との関係性をどの様に構築していくのかは、目下の大きな課題である。

私は、古書店→出版という営為を辿ってきた為に、執筆者は元を正せば弊社のお客様であり、読者も又古書店のお客様であった。現実から照らせば「客」としての学生はほとんど埒外なのである。古書店の客は、その本屋に並んでいる本によって店を選択する。それは古書店側にも言えることで、古書店は店頭にどの様な本を並べるのか、ということによって、客を選別していると言える。従って、たとえば私の古書店に文学書を求めてくる客は、ほんの僅かだし、まして「How to モノ」を探す人は皆無である。

出版の側にしても、どの様な本を出すかによって読者を選択しているのであって、そこでの出版社、編集者と執筆者、読者との信頼関係を基礎として、出版という営為がなされているのだ。

沖縄において、大学出版会設立への要望がちらほら出されたことがあるが、それは大きな声になることなく、沈んでしまっている。それは何よりも市場の狭さから来る利益確保の困難性によるのだが、大学出版会に求められる熟達した学術書編集者の不在にもよる。

近年の沖縄に関する研究書出版の動向を観ていると、近代史あるいは現代史、つまりは沖縄問題に関する研究書の刊行が急激に拡大しつつある。恐らくこれは辺野古基地建設を巡る議論の高まりを反映しているのだろうと思うが、これらの領域においては沖縄県内出版社の存在感は大変小さい。恐らくこの分野での力量を持った編集者の不在もあるし、県内のみを主な市場としている状況では全国対応が弱い、つまりは販売力が弱いということも影響していると言える。

ところで古書店は、研究者からどの様な資料があるか、と問われてその答えとなる情報を提供するのだが、これは双方向の対話から成り立っている。視点を変えれば、何が不足しているのか、どの様な本が求められているのかを見定める機会でもある。それならば、求められている本を捜すよりも、自分で作ってしまった方が早いのではないだろうか、という事から始まったのが私供の出版活動であった。

小社の出版の大きな軸となっているのは、『冊封琉球使録集成』とその周辺、つまり琉球と中国の関係史に関する本なのだが、これもきっかけは冊封使録の類が古書ではなかなか入手が困難だということと、仮に入手出来たとしても基本的に漢文資料なので一般の人にとって、とてもハードルが高いという現実への対応であった。そしてこれに正面から向き合 って現代語訳注の原稿を提供してくれた原田禹雄先生との出会いが出版の具体化への始まりとなったのである。

ただ、本を出版する以上、少なくともその元手を回収しなければ継続は難しい。『冊封琉球使録集成』が経済的に出版として成立するものかどうかは甚だ疑わしかったが、マイナスになった時にそれを補てんする装置として私の方には「古書」があったのである。それと1994 年に刊行した『沖縄戦後初期占領資料』の成功による資金的余裕もあったので、冒険に足を踏み入れることが出来たのである。

『冊封琉球使録集成』は、かくして刊行され17年をかけて完結したのだが、これは様々な状況が全体としてプラスの方向で結びつけられながら出来たのだと言える。単純に利益計算で考えたら絶対に成立しない企画だったのだ。
ただこの企画は、琉球・沖縄史研究の隆盛と深化の求めに対応するものであった為に、更にいろいろなテーマを呼び寄せ、琉中関係史という出版領域を生み出し、その基底を作った、ということでの出版社としての独自の位置を確保することに繋がったということが出来る。

出版は出版社だけでは出来るものではなく、その時々の研究の状況や執筆者との良好な関係の構築、新しい読者の開拓、そして資金的余力があってこそ上手くいく、というごく当たり前のことを、この40年の活動を通してようやく自然に分かってきた昨今なのだ。