第27回東アジア出版人会議 沖縄会議(2019年11月) 発表原稿

琉球史料をめぐる学術交流

前田舟子

失われた琉球の宝

去る10月31日未明の首里城大火災で、426点もの琉球王国の宝が失われた。今年2月にようやく完成したばかりの首里城は、正殿を含む城の主要部分を失ってしまった。琉球王国のシンボルである赤いお城を失ったという県民の喪失感は重く、その日は終日、喪に服したような気分であった。首里城の炎上を見た古老たちは、去る沖縄戦で全焼した首里城が思い起こされ、戦争の再来かと記憶がフラッシュバックしたと紙面で語っていた。

琉球王国時代の遺宝は、ちょうど140年前の1879年に、その一部が明治政府に接収されて東京へ運ばれたが、琉球の外交史料である『歴代宝案』のように、1923年の関東大震災で焼失してしまったものもある。だが、なんと言っても、多くの宝を一気に消し去ったのは沖縄戦である。琉球史研究を行う中でいつも直面せざるを得ないのは、“史料的制約”という障壁である。琉球王国時代に残された多くの記録類が、伊波普猷や真境名安興らによって戦前の沖縄県立図書館に集められたものの、沖縄戦で焼失してしまい、戦後は残ったわずかばかりの琉球史料で研究をせざるを得なかった。

しかし、そのような状況の中で、1980年代に台湾と沖縄との間で始まった学術交流をきっかけに、90年代に中国との交流も本格化し、新たな琉球史料をめぐる動きが広がりつつある。

今回は、琉球史研究におけるわずかな史料の保存と公開についてその一部を紹介してみたい。そこから、戦後、特に80年代から始まった沖縄と台湾、中国との学術交流によって、琉球史研究がどれほど発展してきたのかを垣間見ることができよう。

中琉学術交流と「歴代宝案」

1983年10月下旬、当時、沖縄大学教授であった島尻勝太郎氏率いる「琉球学術文化界交流親善訪華団」一行12名が中華民国(台湾)を訪問し、現地の歴史研究者らと対談を行った。その中で、共に学術交流ができればと、「中琉歴史関係学術会議」設立の構想が話し合われた。

1985年10月、中華民国琉球友好訪問団が沖縄を訪問し、沖縄側の研究者らとの座談会が開かれた。その席上で、台北と那覇で交互に学術会議を開催しようという提案がなされ、翌年に台湾で実行委員会が組織された。執行委員長の国立台湾大学歴史系の陳捷先教授を中心に準備が進められ、1986年11月23日、ついに台北で第一回中琉歴史関係学術会議が開催された1

戦後、多くの貴重な歴史史料を失い、わずかな琉球史料を探しもとめていた当時の沖縄の研究者らにとって、台湾との間に開かれた学術交流はまさに希望の光であった。台湾との交流により、台湾大学が所蔵する「歴代宝案」の筆写本(以下、台湾大学本と称す)を使った研究が行われたほか、沖縄県は1989年から台湾大学本原文の復元を行い、訳注を施した「歴代宝案」シリーズの刊行をスタートさせた。「歴代宝案」は琉球王国の外交文書を収録したものであり、琉球王国の存在を裏付ける貴重な史料であったことから、それが復元されたことの意義は大きい。その復元刊行事業は現在も継続中で、原文篇である校訂本全15冊はすべて刊行されたが、残る数冊の訳注本の刊行を待っているところである。

11995年に初めて中国が参加し、現在では、福建・台北・那覇の3地域で持ち回りの開催となっている。今年(2019)11月には、中国青島で第17回中琉学会が開催予定である。

中国3000キロ踏査行

1992年8月から10月にかけて、沖縄の本土復帰20周年&日中国交正常化20周年を記念して、沖縄タイムス社主催で「中国大陸3000キロ踏査行」が行われた。かつて、琉球の先人たちが歩いた、那覇から北京までのおよそ3000キロに及ぶ進貢ルートを追体験するという企画。当時の若者たちを中心とした一般公募の参加者およそ100名が参加し、現代版中琉交流を実現させた。このとき参加した琉球史研究者らによって、進貢ルートに点在する琉球関係史跡の存在が明らかになり、中琉交流史研究は一気に加速した。

その後を追うように、琉球大学の大学院生であった私も2008年から4年間かけて、中国の福建省から北京までの道のりを調査し、福建師範大学の研究者らの協力を得て、新たな琉球関係史料や史跡を調査することができた。

中国第一歴史档案館所蔵の琉球関係史料

90年代以降、沖縄県と中国第一歴史档案館による公的な交流が開始したことにより、同館が所蔵する琉球関係档案資料の公開・出版が実現した。琉球から中国(明清朝)に差し出した外交文書集「歴代宝案」の原本が失われてしまった今、琉球国王から中国皇帝に呈上された档案類が貴重な史料群となっている。幸いにも、中国ではこうした琉球関係档案資料の原本が残されており、中国側の研究者を中心に解読研究が行われている。近年では、それらの資料の中にある満文档案も発掘されており、中国の若手研究者らが満洲語の入力システムを開発するなど、共同研究がようやく始まったところである2

2福建師範大学の徐恭生・謝必震の両氏による呼びかけにより、中国第一歴史档案館から1993年に『清代中琉関係档案選編』が刊行されるた。以降、『清代中琉関係档案続編』『清代中琉関係档案三編』『清代中琉関係档案四編』『清代中琉関係档案五編』『清代中琉関係档案六編』『清代中琉関係档案七編』が海洋博覧会記念公園管理財団 (現「沖縄美ら島財団」)の出版助成を受けて刊行されている。

台湾大学所蔵の琉球関係史料

台湾大学図書館には、前掲の「歴代宝案」以外にもいくつかの琉球業務日誌が残されている。それは、「冠船日記」「親見世日記」「異国日記」「評価方日記」などである。

そもそも、なぜこうした琉球王国時代の史料の写しが台湾大学に残されているのか。それは、戦前、台北帝国大学(後の台湾大学)に赴任した小葉田淳氏が沖縄県立図書館館長(伊波普猷や真境名安興)に委託して、同館所蔵や尚家所蔵の琉球史料を筆写してもらい、それらを船便で台湾まで輸送させたためである。1945年に小葉田ら日本人教師が台湾を引き揚げると、一部の史料群はそのまま台湾大学に残された。当時、日本ではまだ尚家文書が公開されていなかったことから(尚家文書は2006年に国宝指定)、これらの台湾大学の筆写史料が唯一無二の王国時代の日記史料だと考えられていた。2013年頃までは、それらの存在を知る一部の研究者によって細々と史料閲覧が行われていたが、当時はまだ、台湾大学側は全文公開には踏み切っていなかった。そこに、台湾大学側から2013年に琉球大学の赤嶺守教授に打診があり、翻刻と日本語訳を施して台湾大学から出版する運びとなった。2018年までの5年かけて、全5冊の「台湾大学図書館蔵琉球関係史料集成」を刊行した。これにより、長らく見ることの叶わなかった琉球史料がようやく研究に資されるようになったのである。

台湾国立故宮博物院所蔵の琉球関係史料

1949年に中国で中華人民共和国が成立すると、国共内戦に敗れた国民党政権は中華民 国政府を台湾に移すことになる。その際、中国本土で保管されていた档案史料の一部が台湾に運び込まれ、これらの档案史料は台北の国立故宮博物院や国立中央研究院に保管されている。故宮博物院の現存档案は約40万件、中央研究院の現存档案は約31万件といわれており、その中に多くの琉球関係档案史料の存在が確認されている。

これらの琉球史料の発掘作業は現在も進められており、故宮博物院文献処の陳龍貴・周維強・趙沂芬氏の協力のもと、沖縄美ら島財団の助成金をもって『清代琉球史料彙編宮中档硃批奏摺(上・下)』『清代琉球史料彙編軍機処档奏摺録副(上・下)』として 四冊刊行されている。日本人では判読の難しい軍機処档の行書体漢字を彼らが楷書体に翻刻している3

3以上の内容は、赤嶺守「歴代宝案の校訂と档案史料 : 国立故宮博物院収蔵档案史料との校合を中心に」(『琉球アジア文化論集 : 琉球大学法文学部紀要』第4号、2018年)を参照した。

まとめ

以上のように、琉球史料をめぐる台湾と中国との学術交流について概観してみると、琉球王国時代の史料群は、幾度となく災害に見舞われ失われてきた。そのたびに、研究者らの地道な努力によって、沖縄内外の史料が発掘され、編集されて現在に伝えられてきた。私は2003年から琉球史研究の道に足を踏み入れたが、そのときはすでに、先学たちによる膨大な史料が目の前に広がっていた。それを駆使できるようになりたいと志したのが、私の琉球史研究の始まりだったように思う。私たち世代の課題として、二度と災害で貴重な宝を失わないよう、危険分散の観点からも史料保存のあり方を見直し、デジタル公開などによってどこからでも史料にアクセスできる環境作りを行っていきたいと願っている。30年かけて首里城が復元されたように、「歴代宝案」の復刻も気づけば30年という月日が流れている。琉球史料をめぐる学術交流も30年以上が経過しており、今は“継承”という喫緊の課題に直面している。世界でおそらく沖縄大学にしかないであろう“中琉交流史”という学問分野はある意味貴重であるが、ここからどう後継者を育てていくのか、日々模索中である。

前田舟子(Maeda Shuko)
沖縄県生まれ。沖縄大学専任講師(学術博士、琉球史・中琉交流史)。首里城友の会運営委員会委員。2010年日本学術振興会特別研究員(DC2)、2014年日本学術振興会特別研究員(PD)、2015年名桜大学非常勤講師、2016年沖縄大学非常勤講師を経て現在に至る。2014年第18回窪徳忠琉中関係研究奨励賞を受賞。
※プロフィールは発表年度のものを、そのまま掲載しています。