第27回東アジア出版人会議 沖縄会議(2019年11月) 発表原稿

沖縄での翻訳出版-経験と夢

(有)榕樹書林
武石 和実

私は1990年から本格的に出版活動を始めたわけですがその際の出版のテーマは、「琉球・沖縄」を書物を通して3次元的に浮かび上がらせることは出来ないか、ということであった。

一つの事象でも見る角度や、時点によって様々な見方があるものです。琉球・沖縄の実像は未解明のものが多く、その分多様な分析が可能であり、また必要でもあった。従って沖縄の内外を問わず、沖縄についての前向きのものならば出来るだけ出版し、議論のタタキ台に出来れば、ということで、「売れる、売れない」ということは棚に上げて取り組んで来た。こうした中で、記憶に残る大きな「翻訳」の仕事について報告したい。

その一つは、オランダ構造人類学の日本研究者コルネリウス・アウエハントの『HATERUMA』の訳書の刊行であった。この本は英語版刊行当初から国際的に高い評価を受けていた大著であったが、アウエハントの『鯰絵』が翻訳されて熱狂的支持を得た、という風にはならなかった。『鯰絵』は今では岩波文庫にも収録され、古典としての評価を得ているが、『HATERUMA』の方は誰も手をつけようとはしなかったのである。それには理由があった。本の中で多用される波照間方言による祭祀・地名等の訳が大変困難であったからである。これについては研究の同伴者であったアウエハント夫人の静子さんが全面的に協力してくださり、波照間方言の解釈に大きな力となったことが、出版の推進力ともなったのである。

2002年頃、県内に住む研究者の中鉢良護氏が研究会用に意訳したテキストがあると聞き、このテキストをベースにちゃんとした本にして表に出そうということになった。これはかなり大がかりな仕事になり、同時刊行の『写真集波照間島-祭祀の空間』と供に、その編集用にホテルの一室を長期借用しての長期戦となった。この頃はまだ小社も経済的余裕があり、歳算を度外視したこの様な冒険的企てに乗り出すことが出来たのである。

『HATERUMA 波照間:南琉球の島嶼文化における社会=宗教的諸相』は、2004年に刊行された。A5判、600頁で定価12,000円+税という大著である。沖縄に関する人類学の書物としては恐らくこれを超えるものは質・量ともに今もないと思っているが、商売としては無残なものであった。しかし、国際的に高い評価を得ている外国の本を、日本語に訳し、しかもこれを沖縄の地から発信することが出来たという満足感は大きいもので、沖縄から出版された本として永遠に記憶されてしかるべきものだ、という確信があったからである。

もう一つの翻訳本は、言わずと知れた原田禹雄先生による『冊封琉球使録集成 全11巻』である。この本が出来るまで沖縄では漢文の和とされているのは厳密には「読み下し」であって翻訳というものではなかったと言っていい。しかも原田先生は古文調ではなく「現代語訳」とし、誰にでも読め、理解出来るものとしたのである。原田先生に言わせると「読み下し」は、漢文の読み方であって訳とは本質的に異なる、ということであった。ただ、研究者に配慮し原文の影印ないしは翻刻を附とし、先生の詳細な訳注によって一つ一つの文章のバックボーンが分かる様にしたのである。

本書の刊行は琉中関係史研究に大きく広い影響を与えている。とりわけ、徐葆光(じょほうこう)の『中山伝信録』は、冊封の宴における組踊りや琉球舞踊の復元のきっかけとなり、各方面で活用されている。ただこの出版も又商売としては決して満足のいくものではなかったと言っていい。

今取り上げた二つの翻訳書の刊行は、事前にこれは儲かりそうだからといって出したものではない。琉球・沖縄の実像を本という形で示す、という目的からのものであった。

琉球・沖縄を知ろうと欲するならば、これらの本は必ずや通過しなければならない本なのだと判断し、その基礎を作るための企てであった。

ですから、出版事業の成功という観点から見るならば、あまり褒められた仕事ではない。出版界では昔からいい本とは何かということをめぐって、「売れる本がいい本だ」「いや売れなくたっていい本はあるし、出すべきだ」という議論があり、なかなか決着がつかないのだが少なくとも私は前者には組しない。勿論、私も出版で生きているので、たくさん売れて儲からなければ、次の仕事に繋ぐことが出来ない訳で、この点私の場合はしばしば古書の販売がその助けとなってくれた。

琉球・沖縄は、その文化形成を近隣の国々からの多彩な影響を受けつつ、自己のものとして独自のものを作り上げて来た。

 有名な万国津梁の鐘名にこうある。

琉球国は南海の勝地にして
三韓の秀を鍾め、大明を以って輔車となし、
日域を以って唇歯となして、
此の二つの中間にありて湧出せる蓬萊嶋なり。

すなわち、ここには琉球・沖縄が日本はもとより、韓国・中国との親密な交流をベースにその文化の華を咲かせたということへの誇りが語られていると言えよう。

そして、専ら、これらの交流から恩恵を受けたのは琉球であって、琉球から他国に影響を与えたということはあまりなかったのではと思われる。

このことは「本」に的を絞っても明白で、沖縄は中国や日本の書物を受け入れることはあっても、書物を通して自身を発信するということは、かなり時代が下がることになる。

「琉球」のことを一定のまとまりを持って書き記した最初の本は、琉球のものでも日本のものでもなく、中国・明の冊封使陳侃(ちんかん)による『使琉球録』であった。

1534年(嘉靖13年)の刊行である。次に琉球について出版されたのは袋中上人の『琉球神道記』(1603年の来琉、1648年の刊)であり、これらをベースの一つとして1650年(尚質3年)に『中山世鑑』が日本の『保元物語』などを下敷きにして編纂されたものだということは、これまでの研究で明らかになっている。

あるいは又、ほとんど同じ内容にもかかわらず、日本を向いて編纂された『琉球国由来記』、蔡温本『中山世譜』と、中国を向いて編纂された『琉球国旧記』、蔡鐸本『中山世譜』という様に、中国と日本に対して個別の配慮をしつつの史書編纂ということも見受けられる。

更にまた、近世日本への琉球に関する情報の大きな源は、琉球の本ではなく、例えば明和2年に和刻された『中山伝信録』徐葆光(じょほうこう)、そして天保2年の和刻本の『琉球国志略』周煌(しゅうこう)によってであった。江戸期に刊行された多くの琉球本は、大なり小なりこの2冊をベースにしている。琉球自身からの発進は大変少ないのである。

琉球・沖縄の史書は、その成り立ちからして東アジアの政治的・社会的枠組と切り離すことが出来なかったことは明らかで、この中での書物の持った役割は大変大きなものである。

現在、私供の方で2冊の訳書の計画が進んでいる。1冊は、1852年の『ペリー日本遠征に関するアメリカ上院議会報告書』であり、これはペリーの琉球占領への思惑が記され、又、太平天国の乱に揺れるアメリカ対中国の外交政策についても貴重な資料を提供してくれるだろう。

今1冊は、ドイツ人の人類学者シーモンが1913年(大正2年)に刊行した学位論文『琉球の風土と民俗』(仮題)の訳で、ドイツ人が見た琉球の状況が記された本であり、初の紹介となるものである。

今、沖縄は東アジアの政治的社会的変動によって大きくその将来を問われている。この新しい時代の流れの中で、今再び書物による文化交流を通して新しい文化の形成、新しい沖縄と他の地域との関係性を作って行くことが必要とされているのでは、と思う。その為には沖縄から書き手と編集者と版元の共同の作業として、全アジアの更には全世界への普遍性を内に秘めた本を作り、発進していかなければならないだろう。

私供の今の力では何とも心許ない話なのだが、夢は大きく持ちたいのである。