第 21 回東アジア出版人会議 10 周年記念沖縄 会議( 2016 年 11 月) 基調講演

歴史から見た琉球・沖縄の出版文化

 高良倉吉

 琉球語をめぐる事情

沖縄の島々で用いられてきた言語、すなわち琉球語(琉球方言)は、古い日本語(日本祖語から分離して変化したところの、日本語の系統に属する言葉である。言語学では、日本語を本土方言(狭義の日本語)と琉球方言(琉球語に分類するのが通説となっている。単純化して言うならば、日本の人口の約99パーセントの人びとが話す本土方言と、わずか1パーセントの人びとが話す琉球方言は、言語学的な位置づけとしては対等である。

琉球王国は1429年に成立し、その後の様々な出来事を経て、15世紀末~16世紀初頭には中央集権的な統治体制を確立した。首里城に君臨する王は、奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島の島々を掌握しており、島々の行政を担う地方役人を自ら任命する権限を行使していた。それら4つの島嶼群は琉球語を話す人びとの生活圏であったから、琉球王国の版図は琉球語圏と完全に一致していたことになる。

しかし、琉球語圏の言語事情は複雑であった。長い時間をかけて琉球語はその内部で大きく変化しており、コミュニケーションが困難なほどに分化していたからである。次のような興味深い伝承が伝えられている。

沖縄島から約300キロメートル離れた位置にある宮古島の統治者、与那覇勢頭豊見親(よなはせどとぅゆみや)は、彼よりも偉大である沖縄島の覇者に敬意を表するため、1390年頃、海を渡りその覇者のもとを訪れた。しかし、言語が全く通じなかったため、3年間も滞在してやっとその覇者の言葉でコミュニケーションが可能になったというのである。同じ琉球語とはいえ、沖縄島で話される言葉と宮古島で話される言葉は全く通じないほどに変化していたことを示唆するエピソードだといえよう。

その事情があったために、琉球王国においては、一種の共通語もしくは行政上のコミュニケーション手段を必要とした。その役割を果たしたのが王都である首里の言葉、すなわち首里方言であった。奄美や宮古、八重山の役人たちは、首里城に君臨する王に謁見する際に、自ら首里方言を使うか、もしくは首里方言を話す通訳を通じてコミュニケーションできたのである。

 漢字・漢文と仮名文字

しかし、琉球語はそれを表記する独自の文字や文章語を持たなかった。東アジア世界にはすでに古い時代から中国で常用される漢字や漢文があり、琉球もまた他の国々と同じように漢字・漢文を導入し、これを用いていた。当時の外交文書の記録である『歴代宝案』を見ると、中国(明朝)や朝鮮、東南アジア諸国(現在のタイ、マレーシア、インドネシア、ベトナムなど)とのあいだで取り交わされた外交文書は、すべて漢文で書かれている。つまり、東アジアおよび東南アジアで広く通用する漢文を駆使することによって、琉球もまたコミュニケーションが可能だったのである。

しかし、漢字は表意文字であり、琉球語をそのまま表現することはできない。そこで琉球が注目して導入したのが、日本で考案された表音文字、すなわち仮名文字であった。琉球語によって唱えられ、神々に捧げた神歌(オモロという)は、仮名文字で表記された。それが『おもろさうし』全22巻である。

琉球の王が役人を任命する際にも、仮名文字で表記された辞令書が用いられた。そればかりではない。首里城の周辺には王の事跡を刻む多くの碑文が建立されたが、その文章は表に漢文、裏には仮名文字による琉球語文で記されていたのである。

周知のように、琉球は1372年から中国(明朝)皇帝の権威に従い、忠誠を誓う朝貢国であった。琉球使節は頻繁に福州(福建省)や北京に出向き、外交や貿易の他に中国文化を吸収する機会に恵まれた。中国の最高学府である国子監にも琉球の留学生(官生)を派遣するなど、人材育成にも熱心だった。また、貿易港である那覇の近くには唐営(後に久米村)と呼ばれた福建からの移住者の居留区があり、王国の外交や貿易事業を支援していた。

漢字や漢文を駆使し、中国をはじめとするアジア諸地域と交流できる人材や体制を琉球は備えていたのである。

日本との交流も盛んであった。特に、日本の仏教を導入していた琉球には、日本人の僧侶が来島し、多くの寺院を開いた。仮名文字はその僧侶たちによってもたらされ、普及したと推定されている。

新しい時代の始まり

1609年春、琉球王国は日本最強といわれる薩摩軍の侵攻を受け、敗北する。奄美諸島は王国の版図から切り離され、薩摩の直轄領となった。しかし、王国としての存在は許されたため、新たな時代に対応できる王国の構築が図られた。17世紀末から18世紀初期にかけて、琉球王国は活力を取り戻した。その象徴的な動きは文化分野に現れており、芸能や工芸など今日の沖縄に受け継がれる伝統文化が発展した。

伝統的な中国(明朝滅亡後は清朝)との朝貢関係の他に、薩摩・徳川将軍にも従属するという新たな国際関係が登場したことになるが、その2つの大国との関係バランスを維持しながら、独自の王国としての存立を目指した。首里城に中国皇帝の使者(冊封使)を迎えて行われた外交の式典(冊封式典)の際に、琉球側は磨き抜かれた琉球芸能を披露している。また、徳川将軍のもとに派遣された琉球使節は、江戸城において琉球芸能の神髄を披露している。

芸能は単なる余興ではなく、中国・日本という2つの大国に対して、琉球という存在の文化力、つまりソフトパワーをアピールするものだったのである。

薩摩軍に敗れた時の琉球の人口は、約10万人だったと推定される。王国が活力を取り戻し、芸能や工芸が発展した頃、例えば1729年の人口は約17万人余である。そのうち、農村や離島を除く都市部(首里・那覇など)の人口は約3万人余であった。王都である首里に限っていえば、2万人余程度の人口にすぎなかった。つまり、人口規模において琉球はまさに小国であり、都市人口も限られていたのである。

そのような小国において、出版文化はどのような営みとして存在していたのだろうか。

当然のことながら、都市を拠点とする商業出版は存在していなかった。琉球の政府(首里王府という)が主導して行う事業としては、中国の暦(時憲暦/時憲書)や儒教に関する道徳的な入門書の刊行が行われていたが、特に注目されるのは『御教条』の刊行であろう。儒教的な精神とその心構えを平易に説明する『御教条』は大量に印刷され、琉球の各地に配布された。地方役人や琉球の一般人民は、この書物によって王国の国民として持つべき意識や価値観を学んだのである。

つまり、琉球という国土の内部において、小説や教養書、娯楽書などの表現を国内で印刷し、その出版物を国内向けに流通させる、という意味での出版文化に関していえば、琉球はそのような実態を伴わない後進地域だったということができる。