第 21 回東アジア出版人会議 10 周年記念沖縄 会議( 2016 年 11 月) 基調講演

歴史から見た琉球・沖縄の出版文化

「東アジア出版文化圏」という視点

しかしながら、その当時の出版文化の問題を、琉球という地域に限定して語る必要はない。鹿児島大学の高津孝教授の著作『博物学と書物の東アジア』(2010年、榕樹書林)が明快に指摘するように、その当時の東アジアの出版文化は閉鎖的だったのではなく、今でいえば国境を超えた広域的なレベルで展開するものだった。

中国や日本で刊行される様々な図書が琉球に輸入され、その図書を琉球の人びとは活用していた。また、琉球の人びとが表現し、あるいは必要とした情報を、自分の国ではなく、中国で印刷し、それを持ち帰るということが行われていた。例えば、程順則は『六諭衍義』や『指南広義』を福州で印刷させており、琉球人の漢詩集『琉球詩課』や『琉球詩録』は北京で出版された。このように、琉球人の著作は琉球においてではなく、中国において印刷されることは珍しいことではなかったのである。そのことは、出版文化を狭い範囲に閉じ込めてしまうのではなく、東アジア出版文化圏という広いステージに琉球もまた参加していた、ということを教えている。地元で行われる出版に限定して、その地域の出版文化というのだとしたら、実態からかけ離れており、「出版ナショナリズム」に傾斜した認識とならざるをえない。高津『博物学と書物の東アジア』は、「琉球の出版文化の現実の様相は、狭義の琉球版という狭い視点に立脚していては充分に見えてこない。単純な刊行地主義を脱却し、広義の琉球版という広い観点から、琉球の出版文化全体を捉える視点こそが重要になる」(154頁)、と指摘している。

漢字・漢文を共有する東アジアにおいては、自国の出版文化に限定して語るのではなく、むしろ東アジア出版文化圏という広域的な世界のステージに、どのようにそれぞれが参加していたのか、という視点が不可欠なのである。

あえて言うならば、当時の琉球には行政主導の出版物もあれば、中国や日本で刊行された普及的な書物もあり、また、琉球人の著作でありながら中国で印刷された本もある、という多様な実態だったのである。

1719年に皇帝の使者として琉球を訪れた副使、徐葆光の著作『中山伝信録』は中国で刊行された後、長崎を通じて徳川日本に輸入された。そのテキストが日本版で印刷され、徳川日本の人びとの琉球認識に影響を及ぼした。日本版『中山伝信録』は琉球にももたらされ、琉球人も読んだのである。その当時、中国に滞在してキリスト教の布教活動を行っていたフランス人宣教師は、『中山伝信録』をフランス語に抄訳し、琉球事情を欧米世界に紹介した。

ところで、出版されることはないものの、琉球語で表現され、伝承されてきた重要な問題についても指摘しておきたい。

首里城や江戸城で上演された琉球芸能は、琉球語の歌詞で唱えられた。琉球独自に発達した定型詩である琉歌は、首里方言で詠まれた。琉球の各地で行われる祭祀や祭りの際に唱えられる歌謡は、その島々や村々の方言が用いられていた。また、それぞれの地域に伝わる歴史物語や教訓話なども、地元の方言を通して語られていたのである。つまり、出版という表現形式はとらなかったものの、琉球の各地では長期にわたって独自の言語を駆使し、それぞれの文化を共有する口承の形式が存在したのである。

伊波普猷『古琉球』の意義

1879年春、日本政府は力を背景に首里城の明け渡しを要求した。最後の国王が抵抗せず城を明け渡したため、琉球王国は滅び、沖縄県が置かれた(琉球処分という)。中国と日本という2つの大国のはざまにあって、独自の存在であることを目指してきた琉球だったが、中国との関係を切断され、近代日本の中に完全に取り込まれたのである。

近代沖縄の動きで特筆されるのは、沖縄出身者による沖縄研究が台頭したことであろう。その代表的な人物が伊波普猷(1876~1947年)であり、彼は東京大学で近代言語学を学び、卒業後は沖縄に帰省して初代の沖縄県立図書館長となった。沖縄の言語や歴史、文学、民俗、芸能などを研究し、その成果を地元新聞「琉球新報」などに発表するとともに、各地で頻繁に講演を行った。

彼は次のように訴えた。琉球語(琉球方言)は「日本祖語」から分離して変化したところの、日本語の系統に属する言葉である。沖縄文化のルーツは日本にあり、沖縄と日本のあいだには文化的な一体性、親和性が存在する。したがって、琉球王国の時代が終わり沖縄県の時代になったとしても、両者は文化的な共通性によって再び結ばれたのだ、と。伊波のこの認識は「日琉同祖論」と呼ばれているが、近代を生きる沖縄の人びとのアイデンティティ形成に大きな影響を及ぼした。日本の一部としての沖縄という意識が、しだいに普及・拡大していったからである。

しかし、伊波は次のような主張も付け加えた。沖縄と日本のあいだに文化的な一体性や親和性が存在するとしても、沖縄は独自の歴史を歩み、独自の文化を形成してきたのであり、自ら内包するその個性的な価値を失うべきではない、と。つまり、日本に対して沖縄は独自の存在でもある、と訴えた。

伊波普猷の認識を集成した最初の著作『古琉球』は、1911年12月、那覇の沖縄公論社から出版された。沖縄の歴史や文化の全体像を提示した著作として高い評価を受け、その後、多くの版を重ねた。再版や改訂版は沖縄の出版社ではなく、東京の出版社から刊行されている。