出版人列伝
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#03

琉球プロジェクト
仲村渠理さん

仲村渠理さん(有限会社琉球プロジェクト 代表取締役)
仲村渠理さん(有限会社琉球プロジェクト 代表取締役)

~新たな道を切り開く~

情熱的で活動的な人、沖縄の出版界で新たな道を切り開いている人でもある。

仲村渠氏は1962年12月24日宜野湾市生まれ。琉球大学を卒業後、23歳のときに琉球新報社の資料調査部に嘱託社員として入社。

新聞者に入社したものの、どのような仕事をしているのか皆目見当がつかず、手探りの状態でのスタート。それでも、記事の下調べやデータ作成の仕事を行っていく中で自信をつけ、仕事にも慣れてきた仲村渠氏。「非常に勉強になった期間でした。記事のデータ作成にあたり、関係する会社などへの連絡業務を、物おじすることなくできるようになりました。充実した日々でした。それが今の仕事にも役立っています。本を企画する際にも、どこに、誰に連絡するかを調べて交渉したりしますからね」と語る。

入社して1年半後に出版部へ異動。「当時の吉田企画局長と津嘉山部長に出版部に誘われました。それまで関連会社の新報出版に委託していた編集作業や販売ルートを確立していくうえで、社内の人材を育てていく方針だったのだと思います」。特に、当時は『海と釣り』、『ふるさと飛行』という大型本が売れていた時期だっただけに人材育成は急務だったのだろう。

「そういう時期だっただけに、編集·営業·経理など、すべて手探りの状態でこなしていきました。営業に関しても、何もないところから始まりました」。その後、仲村渠氏は書店を少しずつ開拓していき、今の琉球プロジェクトの根幹を築いていくことになる。

編集面においては「最初に手掛けたのが『まんが首里城物語』でした。新聞連載の書籍化ということもあり、社内的にも力の入った本でした。印刷所に毎日のように通い、担当の方と打ち合わせを重ねました。部数の決定会議があったのですが、私は売れるという自信があったので5000部を主張、上下巻でトータル1万部ですね。社内では冒険しすぎではないかという声もありました。様々なデータを駆使した企画書を作成し、何とか5000部という初版部数を確保し、2か月で完売しました。この経験は自信につながりましたよ」。1992(平成4)年の首里城開園に合わせた発刊とはいえ、2か月で完売したというのは驚きだ。「今では、企画から編集、営業まで担当した印象深い本となっています」と語る仲村渠氏だが、初めての編集作業だっただけに苦労も大きかった。「悩んだときはボーダーインク先代社長の宮城正勝さんに、だいぶお世話になりました。今でも何か相談事があると宮城さんにアドバイスをいただいています。私の出版活動において宮城さんの影響は大きいですね」。

幸先良いスタートを切った仲村渠氏。会社との関係を聞いてみた。「確かに新報という名前は大きいですね。沖縄の人でしたら知らない人はいないでしょう。営業するうえでもやりやすかったのは事実です」。しかし、いかに琉球新報社というバックがあっても、綿密な計画、読者を意識した編集、営業戦略、すべてをこなしていった仲村渠氏の存在なくして『まんが首里城物語』の成功はなかったといえるだろう。

次に編集に取り組んだのは『揺れるデイパック』。富田前会長がキャップを勤めた連載記事を書籍化したものだ。「いかにして売れるかを模索しました。その結果たどり着いたのが、販売を書店だけに頼るのではなく、イベントや講座、講演などを絡めての販売戦略でした。売るために、できることは何でもやったつもりです。この本も完売できました」。イベントを絡めながら営業戦略を立てての完売、仲村渠氏の卓越した営業力があってこそだと感じる。

他に印象に残る本はあるか聞いたところ、「『沖縄コンパクト事典』です。これは沖縄タイムス社が出した『沖縄大百科事典』を意識しての企画でした。もちろん『沖縄大百科事典』は、今でも他の追随を許さない素晴らしい事典です。私はそこを逆手にとって、だれでも気軽に読めるコンパクトな事典なら読者も買ってくれるだろうと考えたのです。企画を提出したのはいいのですが、5回ほど変更を余儀なくされました。初版7000部で考えていましたから」。当時は本が今よりも売れる時代だったとはいえ、沖縄タイムスの先行事例があるため二の足を踏むのも理解できる。それでも仲村渠氏の粘り勝ちとなった。「結果として、初版の7000部を完売して増刷を重ね、合計で1万5000部を売り上げました」。ここまできたら脱帽せざるを得ない。

そのように駆け抜けてきた氏だったが30歳にして転機を迎える。嘱託社員の身分から業務委託として新報と契約することになったのである。「もちろん不安がなかったかといえば嘘になりますが、独立したいという気持ちが高まったのも事実です」。それからは編集から少し距離を置くようになった仲村渠氏。「自分自身の編集能力に限界を感じたのがきっかけです。レイアウトなどがパターン化されるようになり、新鮮味を感じなくなってしまった。マンネリ感を打破できなかったんですね」と語る氏は、営業に力点を置くようになっていく。「営業に魅力を感じ始めたんです。いろいろなところを開拓したいという気持ちもありましたしね」。それからは、プロデューサーとしての立場に立って出版活動を行っていくこととなる。「私のモットーは自分がわからないこと、興味があることをわかりやすく読者に提供していくことです。その意味では沖縄出版協会の会長である大城佐和子さんと共通するものがあります」。